東海豪雨ー隠された被害(中小田井学区)ー

台風19号による浸水被害は2.3万ヘクタールに及び、西日本豪雨を上回りました。
報道を耳にするたび、自分が体験したことを思い出します。

「災害は、なかったことにすれば対策を考えることもない。
被害予測も、想定しなければ、対策を考えなくて済む」


とある災害講習に参加して、講師の先生がおっしゃった言葉です。

行政は、専門家の先生に対して、
被害を少なく見積もることを要求していることを知り、
少なからずショックを受けました。

遠い過去の記憶になってしまった東海豪雨。
でも、その中には隠された被害があります。
隠したことによって、災害の対策が行われない、
教訓を得られなくなってしまいました。

そこで、今回はその隠された被害を綴っていきたいと思います。
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被害状況 
「西区歴史に学ぶ防災マップ」より引用
名古屋市防災マップ2.png
☆昔の中小田井  
「西区歴史に学ぶ防災マップ」より引用
 集落がある場所が高く、田んぼがある地域は低くなっています。
名古屋市防災マップ.png
浸水領域
 国土地理院「東海豪雨災害・状況図ー新川周辺ー」より引用
東海豪雨浸水.png
浸水しているのはかつて田んぼであった場所。昔の集落があった場所は浸水しませんでした。

中小田井周辺図 google mapを使用
中小田井 注釈.png
中小田井学区(中小田井一丁目~五丁目、あし原町、こも原町)
決壊場所:名古屋市西区あし原町
旧西枇杷島町と名古屋市西区の境界は入り組んでいます。

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<広報を信じて>
平成12年9月12日。
その数日前から滝のように激しい雨が、降り続いていました。
止むことのない雨に、いくばくかの不安を感じましたが、
11日は何事もなく、眠りにつきました。

日付が変わったころ、
「こちらは消防団です。庄内川が決壊水位に達しました。
中小田井小学校へ避難してください。
荷物は一切持たずに、至急避難してください」
と車のスピーカーを通じて呼びかけがありました。

この頃は、[避難所に水や食料や毛布はあるので、
余計なものを持ち込むとじゃまになる]と言われていました。

何の考えもなく、言われた通りの行動をしました。
本当に水の一本も、財布も持って行かなかったのです。
近所の一人暮らしのおばあちゃんがみえたので、
その方もお誘いしました。

<受け止められなかった知識>
名鉄の線路近くまで来たとき、水はくるぶしぐらいになっていました。
それでも、雨水だったので、水の色は透明でした。
その時、近所のおばあちゃんは、
引き返して、善光寺さんへ行かないとだめだよ。
そっちは、昔、田んぼだったんだから
」と言いました。

私は、役所が言うことは正しいと信じていたので、
「庄内川が決壊するんだから、堤防道路沿いにある善光寺さんは危険」
と説明してしまいました。
私は、無知で、疑うことを知らず、自分で考えることをしない、お馬鹿さんだったのです。

小学校に近づくにつれ、水は膝丈ぐらいになっていました。
それでも、(排水が大雨のせいで追いつかないんだなぁ)と軽く考えていました。

<新川決壊>
小学校が目の前に見えたとき、
新川が決壊したから、逃げなさい」と言われました。
みるみるうちに、水は泥で濁り、油も混じっていきました。
水位は太ももから、腰あたりまでに上がりました。
ひょっとしたら、私はここで死ぬのかも、と不安がよぎります。

「小学校なら4階まであるから、小学校に避難します」
その時はまだ、2階建てのわが家もすでに同じかそれ以上に水に浸かっていると思っていたのです。
途中からは、夫が近所のおばあちゃんを背負っていました。

東門は閉まっていました。
小学校に避難してきた数人で乗り越えようということになりました。
普通なら、乗り越えることなど無理ですが、
泥水は腰より上の位置まできていたので、浮力で門を越えられました。
小学校は門で囲まれているせいか、水は比較的きれいで、水位もまだ膝上ぐらいでした。

<教頭は学校を守るためにいる>
到着したとき、校舎内はまだ浸水していませんでした。
職員室の前の通路で教頭先生が「土足で神聖な校舎に入るな」と叫んでいました。
避難してきた人々は口々に「この格好を見て」「もうすぐ、ここにも水がくる」
皆、迷わず2階へと避難しました。

私は、教頭先生に
「避難所についたら、名簿に自分の名前を記載しなければならないはずですが、名簿はどこですか?」
と、尋ねました。
教頭先生は
「私は学校を守るためにいます。避難は体育館へとなっているはず」
と答えました。
私は「新川が決壊したから、体育館は危険なんです」と伝えました。
「せめて、紙と鉛筆をください」と頼みました。
教頭先生は「神聖な学校を土足で汚すような人間に筆記用具は貸せない。
自分で持ってくるべきだろう」と言いました。

その時義父が、
「早く2階に行かないと、一気に水があがってくる。ぐずぐずするな」
と怒鳴りました。

2階の教室に到着してほっとしていると、義父が「2階では危ないから3階へ」
と皆を誘導し始めました。
そして、義父は「カバンをなくしたから」とどこかへ行ってしまいました。

<何もない避難所>
3階の教室に到着し、机や椅子を教室の後ろまで運び、空間を開けました。
そのころになると、3階の教室は私たちのように後から避難した人でいっぱいになりました。
教室を安全に使用するため、椅子や机は一つの教室にまとめることになりました。

トイレに行きたくなり、2階のトイレに行ってみると、トイレにはすでに泥水がきていました。
扉は開け放したままになっています。
辛うじて見えている金隠しを目安に周囲の女性に「隠して」と頼み、
ようやく、用を足すことが出来ました。
私より後の人は水が上がって無理だったので、3階の教室の一つをトイレ部屋にして、バケツに用を足すことにしました。

若い女性の人は「できない。どうしよう」と涙ぐんでいました。
下痢を起こしそうになっているようでした。
付き添っている人に「〇〇さん(私のこと)みたいに、皆の前でするわけではないから、我慢しなさい。」と注意されていました。

洋式になれた人はバケツに用を足すのは難しいのか、と初めて知りました。

男性は直接窓から用を足しました。
女性はバケツが一杯になると、「仕方がないよね」と窓から捨てました。

ショーツもズボンも泥まみれで、つる草のようなものがまとわりついていました。
誰かが「葛の葉だ」といいました。
お腹が冷えて私も下痢になる寸前までいきました。
肛門を必死にしめて、お腹を手でさすり続けました。

しばらくすると、暑さで服が乾いていきました。
泥も、乾いて、皮膚のうえで、割れていきました。
救援物資は体育館にあり、何も持ってこなかった私たちは飲まず食わずでした。
喉はカラカラで、舌は干からびてしまいました。

<体育館にいる人の安全は?!>
そのころになると戻らない義父が心配になってきました。
もう、死んでしまったかもと子どもたちが涙ぐんでいると、
義父は戻ってきました。
「下痢で用も足したかったから遅くなった」と言っていましたが、
実は、それだけでは、ありませんでした。
「体育館の様子を見に行っていたが、三丁目(小学校の近く)は体育館に避難している。
こちらに来なければ危険だと言ったが、水が入るのを嫌がって扉を開けない」
「舞台の上からその上(キャットウォーク)に移動すると言っているが、大丈夫だろうか?」と尋ねました。

<キャットウォークは大勢乗ったら危険>
小学校の時に、「体育館の上の通路は作業用通路であり、大勢で乗ると落ちる危険」と、教えてもらいました。
それどころか、「体育館は真ん中に柱がなく、ふたのない箱にドームの天井というフタをした構造。
キャットウォークは体育館の内側と外側にあり、梁として天井を支えている。
そのため、通路が落ちると天井も落ちる」と業者が教えてくれました。
その話を義父にそのまま伝えました。
13864.png
義父は一刻も早く、体育館から校舎に避難させたかったようです。

「ロープと滑車で子どもたちを運べないか?」というと、
夫が小学校の隣のマンションの人に「梱包用バンドと滑車がないか」と聞いてくれました。
校舎とマンションを梱包用バンドでつなぎ、滑車で、ビニールボート、懐中電灯等を送ってもらいました。
段ボールや新聞紙(毛布の代用)も送ってもらえました。
記憶ではそのころには雨は小降りになっていたと思います。

マンションも停電していましたが、パソコンのバッテリーは残っていたので、
その梱包用バンドの強度について調べてもらいました。

すると、重量は子どもなら大丈夫で、強度は十回程度なら大丈夫であることが分かりました。
(その時、初めて、バンドの色に意味があることを知りました。)

<悪夢だったのか?>
ボートを体育館と校舎の中間におき、男性や泳げる女性はビニールボートに飛び移ってから、
校舎の4階に避難したようでした。
暗闇のなかで、子どもたちを避難させるのは危険だったので、
子どもたちの避難は夜が明けるのを待つことにしました。
子どもたちの不安を一掃するため、残った女性には歌を歌ってもらうことにしました。
できる限り壁に近い位置に座ってもらい、頭は壁に傾けてもらいました。

明るくなったころ、3階の人たちが起きる前に、救出活動を開始しました。
なぜかといえば、体育館の毛布や水や食料を校舎に避難した人は渡してもらえず、
確執があったためです。

校舎の4階と体育館の窓を梱包紐でつなげてもらいました。
まず、夫が滑車で体育館側へ渡り、中間地点にはボートと、落ちた場合に救助する人が待機しました。
校舎の4階では子どもたちを受け止める人が待機しました。
できるだけ、楽しい雰囲気にしてもらいました。
遊びのように、一人ずつ、紐とロープでつかまり、夫が校舎に届くように勢いをつけます。
(すこし、4階の方が高かった)
8人ごと位の間隔で、紐を新しいものに取り換えました。

雨が上がっていたのも幸いして、
無事、誰も落下せずに校舎の4階にたどり着けました。
紐はちょうど尽きていました。

夫が水に飛び込んだ時、キャットウォークを強く蹴ったので、
その弾みでキャットウォークは落下し、体育館の天井が部分的に少しだけ落ちました。
ひやりとしましたが、夫は無事で、そのまま、帰宅しました。

この時の記憶は正直あやふやで、悪夢を見ていたのかもと感じられます。

<ヘリコプターは飛んでいるのに!>
昨日までの雨が嘘のように、お天気になりました。
これで、食料や水や毛布が届くと、この時は安堵の気持ちでいっぱいでした。
あたり一面水で覆いつくされ、道路はどこにあるのかわかりません。
テレビニュースを見ているように感じました。
上空をヘリコプターが飛び交います。
きっとニュースで流れているんだろうなと思っていました。

ところが、お昼になっても、さらに、夜になっても、食料はおろか水すら届きませんでした。
同じ教室にいる人が心配して、自分の分の水を分けてくれました。
まず、子どもたちが飲んで、そして義父母が飲みました。
私は状況に不安を感じたので、自分は我慢して、返しました。

<避難所でないところには、物資が届いていた>
そのころになって、名簿を作っていなかったことを思い出し、義父母に相談しました。
すると、義父が、誰かから携帯電話を借りて、一丁目の町内会長に電話をしました。
町内会長は善光寺さんに避難していて、そこでは避難所ではないのにかかわらず、前日の夜のうちに、救援物資が届いたとの事でした。

三丁目の町内会は行政の自治会に所属しておらず独自の活動をしていました。
そのため、被災したときに名簿を作り、その人数をもとに救援物資を依頼するという流れを知らなかったのです。
一丁目の町内会から連絡をしてもらい、その結果、やはり名簿を作らなければならないとの事でした。
ただ、それだけでは済まなかったのです。

<「見せしめ」と「かん口令」>
後に知ったことですが行政側は、「三丁目の町内会には見せしめのために名簿を作ったことを知らせるな」と言ったそうです。
そして、義父は「被害にあった人が土地を売ることができるように、当分の間大規模な報道はしてほしくない」
と話していました。

名簿は夜のうちに出来上がりましたが、救援物質は翌朝になるとのことでした。
結局私は二晩水が飲めない状態で過ごすことになりました。
ただ、段ボールと新聞紙のおかげで、それなりに眠ることが出来ました。

<食糧が届いても茫然自失>
三日目の朝に、パンと飲み物が届きました。
それを教室ごとに分配して、自分の滞在している教室まで戻りました。
ところが、「取りに来てください」といっても、半分以上の人が来てくれません。
「〇〇さん」と呼ぶと、やっと立ち上がって取りに来るという状況でした。
皆、被害の深刻さに茫然自失としてしまい、また、緊急時の気力も失い、ぐったりとしていました。

「家が流されてしまった。写真も思い出も流されてしまった。」
「立ち上がる気力もない」「これからどう生活したらいいのかわからない」
私は「無理にでも食べて」と配ってまわりました。

義父はわざと、4階に聞こえるように、「名簿を作ったから、3階は救援物資が来たぞ」と言いました。

それに気づき、4階の人々は3階の人にだけ救援物資が届いたことを知りました。
そこで、義父が「私が意地悪をした。悪かった」と土下座をしました。
1時間ほどおくれて、4階にも救援物資が届きました。

昼過ぎに夫が戻ってきて、「自宅は浸水していない。(隣にある)両親の家は少し浸かったようだ」と言いました。
そのため、私たちも昼食の弁当をもらって帰宅しました。

<我が家は安全だった>
家に到着すると、玄関は泥まみれになっていたものの、他はもとのままでした。
電気は止まっていましたが、水道は大丈夫でシャワーを浴びることが出来ました。
また、ガスも止まっていなかったので、ガステーブルのコンロにマッチで火をつけました。
その後、チャッカマンを探して、それで火をつけるようにしました。

隣にある義父母宅は、土地が少し低くなっているので、床上まで浸水していました。
ベッドは辛うじて浸水を免れたようでした。

電話も通じていました。結局、安全な場所から危険な場所へ避難していたのでした。

<町は、廃墟のよう!!>
道路沿いに汚れた家具や畳が出せることになりました。
義父母宅の畳を20枚、家族4人(夫と私と子どもたち)で運びました。
細い道路は、汚れた家具などで埋め尽くされ、廃墟と化していました。
汚泥が乾いて空気中を舞っていました。
息をするのも辛く、(未来永劫この有様がつづくのでは)と不安になりました。

義父母宅の床は何度拭いても、臭いは染み付いていて、なかなか取れませんでした。
結果として、床はすべて新しいものに替えました。

---------------その後-----------------

これだけであれば、「災害の貴重な教訓を得た」というだけだったと思います。
特に体育館の話は悪夢としか思えないあやふやな記憶です。

いつの間にか小学校の体育館の周りに足場が気づかれ、ネットで覆われていました。
中の様子は全く見えませんでした。
数か月そのままの状態で放置されていました。

ある朝、中小田井駅の近くを通ると、ドシーンというとんでもなく大きな音と振動が耳に響きました。
何が起こったのか、薄々は見当がついていましたが、そのまま出勤しました。
一日中、耳が痛くて仕方がありませんでした。
その後、小学校の体育館がダイナマイトで爆破されたことを知りました。
三丁目だけは、「耳栓をするように」と回覧板が回っていたということです。

中途半端な壊れ方だったので、危険で、壊し方がなかなか見つからなかったそうです。
体育館のキャットウォークが落ちて、天井も一部落下したことは、
児童のトラウマになるといけないということで、かん口令が敷かれている
という話でした。

その件の時だったのでしょうか。
三丁目の方が「真実を知りたい」と義父のもとに訪れました。
義父は何もしゃべらなかったので、隣に住んでいる私の元にも訪れました。

その時に、役所の人間が
「見せしめのために、三丁目には名簿を作らなければならないことを伝えるな」
と指示した件を知りました。
「善光寺に避難した一丁目の人の話から分かった」そうで、
「この件を(義父の証言で)きちんと表に出して、今後の対応策を決めて欲しい」との事でした。

私もその通りだと思ったので、義父を説得しようと試みました。
義父は
「大きく報道されると、地価が下がる。
家が濁流で流された人や、半壊になった人の中にはローンが残った人も大勢いる。
地価が大きく下がったら、土地を売っても借金だけが残ってしまう。」
と話しました。

私は「今後の対策のためにも、どの場所にどれだけの水が来たのか、記録に残す必要がある」
と、義父に話しました。
三丁目の人は「謝ってほしいわけではなくて、今後のためのことに証言は必要」と説得していました。
義父は「責任を問うのではなく、未来のための記録ということなら交渉できる」と言いました。
結果、行政でも既に作成を始めているという事でした。

義父は「10年たって防災対策が出来ていないようなら、表に出さなければならない」とも言っていました。
その義父は詳しい事情を抱えたまま平成23年に亡くなりました。


<最後にハザードマップ>
庄内川・矢田川決壊の場合
ハザードマップ 庄内川決壊 加工用.png

52番 中小田井小学校 3階以上
53番 中小田井コミュニティーセンタ- ×

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