大阪城天守閣・大阪歴史博物館ー青春18きっぷの旅
8月31日(土)、大阪城天守閣と大阪歴史博物館へ行ってきました。
青春18きっぷを使っての旅行です。
朝、7時32分名古屋発米原行の列車へ。
米原では3番線が目の前の電車だと気づかず、階段を上りかけました。
なぜか米原では乗り継ぎ時間が極端に短いです。
10時13分大阪着、環状線で森ノ宮へ。
大阪歴史博物館へは歩いていくことにしました。
午後からお天気が崩れるようだったので、
予定を変更して大阪城に先に行くことにしました。
大阪のマンホールが目にとまったのでパチリ。

大阪城とビル、お堀を行く船が描かれていますね。
大阪城が見えてきました。

立派な櫓ですね。

後から調べてみたら多聞櫓と千貫櫓でした。
写真の右側が多門櫓で左側が千貫櫓。
どちらも重要文化財です。
多聞櫓は、
「徳川幕府の大坂城再築工事により1628年(寛永5年)に創建されましたが、
1783年(天明3年)の落雷で全焼。
1848年(嘉永元年)に再築されています。」
そうです。
きれいですもんね。
千貫櫓は、
「千貫櫓は大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つです。
西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃できます。
創建は徳川幕府により大坂城再築工事が開始された1620年(元和6年)。
戦後の解体修理の時に、墨書で
「元和六年九月十三日御柱立つ」
と記された部材が見つかりました。」そうです。
こちらは外観からも時代を感じます。
大門は、巨大な石で作られていますね。

大門をくぐると、また二つの櫓がみえてきます。

説明書きを読むと現存する多聞櫓でもこの多聞櫓は最大規模なのだそう。

目の前にとんでもない巨石が見えてきました。

説明書きもパチリ。
「『桜門枡形の巨石』
徳川幕府による大阪城再建築工事
寛永元年(1624)備前岡山藩主池田忠雄の担当。
石材は備前産の花こう岩。
正面の石は蛸石(たこいし)と呼ばれる城内第1位の巨石、
重量は約108トン。」
やっと天守閣が見えてきました。
雨はパラついているものの、雲は薄いです。

まずは、天守閣最上階へ。
もちろん、階段を昇っていきます。

展示品を見ながら降りていきます。

降りてからスタンプを押させてもらいました。
他の100名城は分かりやすいばしょか、切符売り場にあるのに、
城内に受付で聞かないと押せないのは不自由ですね。
いったん、出てからの見返り天守閣です。

大阪城の外にあるコンビニで昼食を買い、
その横の藤棚の下のベンチで昼食タイムです。
涼しくて景色も堪能できました。

大阪歴史博物館
さて、今日のメインイベント「大阪歴史博物館」です。
玄関を入ろうとすると、NHKと大阪歴史博物館はなんとつながっています。
なぜだろう???
時刻は12時半。
浪速宮(なにわのみや)遺跡探訪が気になっていたので、さっそく申し込みました。
出発まで30分あるので、まずは最上階へ。
【後期浪速宮 太極殿】
後期浪速宮の太極殿は発掘調査により、
桁行(長辺)約42m、梁行(短編)約21mの規模であることがわかった。
天平16年(744)2月、
浪速宮を都とするという聖武天皇の勅命が宣せられた。
平安時代の資料から大胆に再現してみたそうです。



映像で儀式の様子が再現されます。

終わるとスクリーンが上がり、窓が見えてきました。

写真は重要文化財の「船形埴輪」です。
ー古墳時代前期、4世紀後半、大阪市平野区ー
「船首と船尾が上下に二股に分かれた準構造船をかたどる。
船の側面の上の4対の突起は櫂(オール)の支点である。」

こんな緻密な埴輪があの当時作れたなんて、すごいですね。
奥の埴輪も重要文化財の「船形埴輪」です。
「2本の脚台上の両端が大きく反り上がった船体をのせる。
両側の側面(両舷)をまたいでハート形の隔壁が取り付けられている」
こちらも芸術的ですらありますね。

次は「家形埴輪」です。

当時の屋根の形はこんなんだったんだと、思うと楽しくなってきました。

頭の中がごちゃごちゃしてきましたが、勉強になります。

「上町大地の北端で5世紀後半の16棟の大型建物跡が見つかった。
間口10m、奥行9mの総柱式という当時としては破格の規模で、
東西2群に分かれて整然と並び建っていた。
これらの建物は、規模や数、配置、
さらに難波堀江に近いことから、
倭王権が物資集散の拠点に建てた倉庫群と考えられる。」
そうです。
難波宮発掘現場の復元模型


前期難波宮と後期難波宮の遺構は重なって存在していたのですね。
でも、どういうことなんでしょうか。
12時55分、集合場所に行くと、
「博物館前の正倉院みたいな建物1時までだよ」
と教えてくれました。
慌てて、見に行きました。
<法円坂遺跡>大型倉庫
先ほど、こんがらがっていたものですね。


入るときは存在すら気づきませんでした。
中に入ることが出来ました。
天井はこんな感じ。

側面は板の隙間から光がさしていました。

倉庫の横にも何やら飛び石のようなものが設置されています。
果たしてこの正体はいかに。

難波宮遺跡探訪
戻るとちょうど1時。
本当に教えてもらってよかった。
ちなみに復元倉庫公開時刻は、12:30~13:00(雨天中止)です。
さあ、地下遺跡へ。
ところが、フリップを使いながらその場での解説が始まりました。
「ここは上町台地の北端にあります。
先ほど見てこられた倉庫は高床式倉庫で、
16棟以上ならんでいました。
倉庫の隣の柱の跡は見てこられましたか?
JRの大阪駅のあたりは昔は海でした。
港があったと考えられています。
正倉院は一つですが、ここは16棟以上もあったのです。」
「10階で前期難波宮と後期難波宮について見てこられましたか?
戦後、鴟尾(しび)が二つ発見されました。
鴟尾とは屋根の上の両端につけられる飾りのことです。
前期難波宮は、日本で最初の本格的な宮殿です。
建物は中国の影響を受けています。
発掘により、柱の穴に焦げた土が詰まっていて、火災があったことがわかりました。
孝徳天皇が難波宮に遷都し、大化の改新はここで行われました。
天武天皇のとき、複都制になったが、686年火災で焼失しました。
後期難波宮は、聖武天皇の時、造営。
副都としました。
聖武天皇は平城京から恭仁京への遷都を行っていますが、
再び、難波宮へ遷都しました。(745年)
786年桓武天皇により長岡京へ遷都しました。
その時、柱などは材木として長岡京へもっていったそうです」
火災で燃えてしまったので、重なっていてもおかしくないわけですね。
1階の集合場所には、床が透明になっていて、下の遺跡の一部が見えるようになっています。

ひとしきり、この説明もあってやっと、外に出たと思ったら、
今度は博物館とNHKとの共通スペースに案内されました。
床の〇印も、柱の跡を意味するそうです。

今度こそ、外に出たから地下遺跡へと思いきや、
NHKの隣で、水利施設の話をされました。
ここは谷筋が多く、水利施設があったそうです。
その後、やっと、地下遺跡に案内されました。
この空間は遺跡を守るためしっかりと冷房が効いていました。

ランプで示されたところが、柱の跡だそうです。

掘立て柱の立て方の説明もありました。

位置関係のフリップ

やっと、全体像が理解できるようになりました。
めでたし、めでたし。
再び10階へ。
先ほどの続きです。

街のど真ん中で遺跡が発掘されるのはおもしろいですね。
2種類の鴟尾(しび)

先ほど話に出てきたのはこれのことだったのですね。
大きい方の鴟尾(しび)

小さい方の鴟尾(しび)

復元高は17cmぐらいで通常の1/7ぐらい、
頭部には羽根型の模様を4段以上削り出す。
大きい方の実物大

土馬。なぜか心惹かれます。

9階は「中世近世フロア」 探検!水都の町並みぐるっとめぐり
江戸時代の大阪を案内してくれました。

展示も立体的ですね。

御座船地車(ござぶねだんじり)
昭和30年ごろまで安立町で使われていたそうです。

投扇興体験
扇を投げる遊びです。
扇の落ち方で得点が決まります。
枕が倒れるとマイナスになります。
私は最後に当たったのですが、「花散里」で0点でした。
8階は「歴史を掘るフロア」 冒険!実物大の発掘現場
いろいろな体験ができます。

7階は「近代現代フロア」 経験!等身大のリアルな街のパノラマ
大大阪時代は商都としてだけではなく、工業の街でもあったことを知りました。
こうして4時ごろ大阪をあとにしました。
途中米原で井筒屋の駅弁を買いました。
6時半だというのに、最後の2個で、
お目当ての「湖北のおはなし」はすでになく
牛肉弁当1000円を買いました。
野菜があまりないので、少々不満でしたが、
電車の中で美味しくいただきました。
牛肉がたっぷり入って大満足。
何とか座れた状態だったので、写真を撮る余裕がありませんでしたが、
あとで、自宅で食べた友人が写真を送ってくれました。


いろいろと勉強になった旅でした。
青春18きっぷを使っての旅行です。
朝、7時32分名古屋発米原行の列車へ。
米原では3番線が目の前の電車だと気づかず、階段を上りかけました。
なぜか米原では乗り継ぎ時間が極端に短いです。
10時13分大阪着、環状線で森ノ宮へ。
大阪歴史博物館へは歩いていくことにしました。
午後からお天気が崩れるようだったので、
予定を変更して大阪城に先に行くことにしました。
大阪のマンホールが目にとまったのでパチリ。

大阪城とビル、お堀を行く船が描かれていますね。
大阪城が見えてきました。

立派な櫓ですね。

後から調べてみたら多聞櫓と千貫櫓でした。
写真の右側が多門櫓で左側が千貫櫓。
どちらも重要文化財です。
多聞櫓は、
「徳川幕府の大坂城再築工事により1628年(寛永5年)に創建されましたが、
1783年(天明3年)の落雷で全焼。
1848年(嘉永元年)に再築されています。」
そうです。
きれいですもんね。
千貫櫓は、
「千貫櫓は大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つです。
西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃できます。
創建は徳川幕府により大坂城再築工事が開始された1620年(元和6年)。
戦後の解体修理の時に、墨書で
「元和六年九月十三日御柱立つ」
と記された部材が見つかりました。」そうです。
こちらは外観からも時代を感じます。
大門は、巨大な石で作られていますね。

大門をくぐると、また二つの櫓がみえてきます。

説明書きを読むと現存する多聞櫓でもこの多聞櫓は最大規模なのだそう。

目の前にとんでもない巨石が見えてきました。

説明書きもパチリ。
「『桜門枡形の巨石』
徳川幕府による大阪城再建築工事
寛永元年(1624)備前岡山藩主池田忠雄の担当。
石材は備前産の花こう岩。
正面の石は蛸石(たこいし)と呼ばれる城内第1位の巨石、
重量は約108トン。」
やっと天守閣が見えてきました。
雨はパラついているものの、雲は薄いです。

まずは、天守閣最上階へ。
もちろん、階段を昇っていきます。

展示品を見ながら降りていきます。

降りてからスタンプを押させてもらいました。
他の100名城は分かりやすいばしょか、切符売り場にあるのに、
城内に受付で聞かないと押せないのは不自由ですね。
いったん、出てからの見返り天守閣です。

大阪城の外にあるコンビニで昼食を買い、
その横の藤棚の下のベンチで昼食タイムです。
涼しくて景色も堪能できました。

大阪歴史博物館
さて、今日のメインイベント「大阪歴史博物館」です。
玄関を入ろうとすると、NHKと大阪歴史博物館はなんとつながっています。
なぜだろう???
時刻は12時半。
浪速宮(なにわのみや)遺跡探訪が気になっていたので、さっそく申し込みました。
出発まで30分あるので、まずは最上階へ。
【後期浪速宮 太極殿】
後期浪速宮の太極殿は発掘調査により、
桁行(長辺)約42m、梁行(短編)約21mの規模であることがわかった。
天平16年(744)2月、
浪速宮を都とするという聖武天皇の勅命が宣せられた。
平安時代の資料から大胆に再現してみたそうです。



映像で儀式の様子が再現されます。

終わるとスクリーンが上がり、窓が見えてきました。

写真は重要文化財の「船形埴輪」です。
ー古墳時代前期、4世紀後半、大阪市平野区ー
「船首と船尾が上下に二股に分かれた準構造船をかたどる。
船の側面の上の4対の突起は櫂(オール)の支点である。」

こんな緻密な埴輪があの当時作れたなんて、すごいですね。
奥の埴輪も重要文化財の「船形埴輪」です。
「2本の脚台上の両端が大きく反り上がった船体をのせる。
両側の側面(両舷)をまたいでハート形の隔壁が取り付けられている」
こちらも芸術的ですらありますね。

次は「家形埴輪」です。

当時の屋根の形はこんなんだったんだと、思うと楽しくなってきました。

頭の中がごちゃごちゃしてきましたが、勉強になります。

「上町大地の北端で5世紀後半の16棟の大型建物跡が見つかった。
間口10m、奥行9mの総柱式という当時としては破格の規模で、
東西2群に分かれて整然と並び建っていた。
これらの建物は、規模や数、配置、
さらに難波堀江に近いことから、
倭王権が物資集散の拠点に建てた倉庫群と考えられる。」
そうです。
難波宮発掘現場の復元模型


前期難波宮と後期難波宮の遺構は重なって存在していたのですね。
でも、どういうことなんでしょうか。
12時55分、集合場所に行くと、
「博物館前の正倉院みたいな建物1時までだよ」
と教えてくれました。
慌てて、見に行きました。
<法円坂遺跡>大型倉庫
先ほど、こんがらがっていたものですね。


入るときは存在すら気づきませんでした。
中に入ることが出来ました。
天井はこんな感じ。

側面は板の隙間から光がさしていました。

倉庫の横にも何やら飛び石のようなものが設置されています。
果たしてこの正体はいかに。

難波宮遺跡探訪
戻るとちょうど1時。
本当に教えてもらってよかった。
ちなみに復元倉庫公開時刻は、12:30~13:00(雨天中止)です。
さあ、地下遺跡へ。
ところが、フリップを使いながらその場での解説が始まりました。
「ここは上町台地の北端にあります。
先ほど見てこられた倉庫は高床式倉庫で、
16棟以上ならんでいました。
倉庫の隣の柱の跡は見てこられましたか?
JRの大阪駅のあたりは昔は海でした。
港があったと考えられています。
正倉院は一つですが、ここは16棟以上もあったのです。」
「10階で前期難波宮と後期難波宮について見てこられましたか?
戦後、鴟尾(しび)が二つ発見されました。
鴟尾とは屋根の上の両端につけられる飾りのことです。
前期難波宮は、日本で最初の本格的な宮殿です。
建物は中国の影響を受けています。
発掘により、柱の穴に焦げた土が詰まっていて、火災があったことがわかりました。
孝徳天皇が難波宮に遷都し、大化の改新はここで行われました。
天武天皇のとき、複都制になったが、686年火災で焼失しました。
後期難波宮は、聖武天皇の時、造営。
副都としました。
聖武天皇は平城京から恭仁京への遷都を行っていますが、
再び、難波宮へ遷都しました。(745年)
786年桓武天皇により長岡京へ遷都しました。
その時、柱などは材木として長岡京へもっていったそうです」
火災で燃えてしまったので、重なっていてもおかしくないわけですね。
1階の集合場所には、床が透明になっていて、下の遺跡の一部が見えるようになっています。

ひとしきり、この説明もあってやっと、外に出たと思ったら、
今度は博物館とNHKとの共通スペースに案内されました。
床の〇印も、柱の跡を意味するそうです。

今度こそ、外に出たから地下遺跡へと思いきや、
NHKの隣で、水利施設の話をされました。
ここは谷筋が多く、水利施設があったそうです。
その後、やっと、地下遺跡に案内されました。
この空間は遺跡を守るためしっかりと冷房が効いていました。

ランプで示されたところが、柱の跡だそうです。

掘立て柱の立て方の説明もありました。

位置関係のフリップ

やっと、全体像が理解できるようになりました。
めでたし、めでたし。
再び10階へ。
先ほどの続きです。

街のど真ん中で遺跡が発掘されるのはおもしろいですね。
2種類の鴟尾(しび)

先ほど話に出てきたのはこれのことだったのですね。
大きい方の鴟尾(しび)

小さい方の鴟尾(しび)

復元高は17cmぐらいで通常の1/7ぐらい、
頭部には羽根型の模様を4段以上削り出す。
大きい方の実物大

土馬。なぜか心惹かれます。

9階は「中世近世フロア」 探検!水都の町並みぐるっとめぐり
江戸時代の大阪を案内してくれました。

展示も立体的ですね。

御座船地車(ござぶねだんじり)
昭和30年ごろまで安立町で使われていたそうです。

投扇興体験
扇を投げる遊びです。
扇の落ち方で得点が決まります。
枕が倒れるとマイナスになります。
私は最後に当たったのですが、「花散里」で0点でした。
8階は「歴史を掘るフロア」 冒険!実物大の発掘現場
いろいろな体験ができます。

7階は「近代現代フロア」 経験!等身大のリアルな街のパノラマ
大大阪時代は商都としてだけではなく、工業の街でもあったことを知りました。
こうして4時ごろ大阪をあとにしました。
途中米原で井筒屋の駅弁を買いました。
6時半だというのに、最後の2個で、
お目当ての「湖北のおはなし」はすでになく
牛肉弁当1000円を買いました。
野菜があまりないので、少々不満でしたが、
電車の中で美味しくいただきました。
牛肉がたっぷり入って大満足。
何とか座れた状態だったので、写真を撮る余裕がありませんでしたが、
あとで、自宅で食べた友人が写真を送ってくれました。


いろいろと勉強になった旅でした。
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