「平家琵琶 -諸行無常の世界―」

5月29日(水)午前10時15分~
春日井市民会館にて。

講師 伝承文化研究センター所長
      林 和利 氏
演奏 国風音楽会会長
      今井 検校 勉 氏

前半は林氏による講義、後半は今井検校による演奏でした。

以下は講義録です。

<平家琵琶と平曲>
現在、ピアノを持つのがステイタスとすれば、
平安~鎌倉時代、琵琶を持つのがステイタスでした。
琵琶の歴史は古く、「琵琶湖」も楽器の琵琶に形が似ていることから、
琵琶湖になりました。
昔は「平曲」とは言わずに、単に「平家」と言っていた。
「平曲」というようになったのは、明治以降です。

<語り本と読み本>
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の書き出しで始まる「平家物語」。
「語り本」とは平曲を学ぶために文字にした本です。
他に「読み本」といって、読書のためのものもありました。
「平家物語」として現代に伝わっているのは「語り本」の方です。
「語り本」は12巻なのに対して、読み本は24巻48巻として、
増幅していってしまいました。
最後には「源平盛衰記」というほぼ別の作品になりました。

<平家物語の作者>
平家物語は作者不詳です。
通説では「徒然草」226段に
「信濃前司(しなのぜんじ)行長(ゆきなが)」の作と書かれています。
ところが、国司の名前を調べても行長という人は出てきません。
そのため、存在が確定していないのです。
学術上は、壇ノ浦の合戦から約50年後以降しか資料がありません。

<平家物語の起源 林先生の説>
1185年3月24日に壇ノ浦の合戦は行われました。
3か月後、京都で大震災が起きました。
日本人は「たたり」ととらえるのが一般的です。
そのため、平家の祟りで地震が起こったと人々は考えたのではないでしょうか。
魂鎮めが僧侶によって行われたのでしょう。
それが起源だと考えています。

<覚一本の歴史>
名古屋に平曲の伝統が伝わったのは、
江戸中期、荻野検校が名古屋に来てからです。
平曲は当初、「一方流」と、「八坂流」がありました。
「八坂流」は早くに衰えてしまいました。
一方、「一方流」は、江戸時代に「前田流」と「波多野流」に分かれましたが、
「波多野流」はすぐ衰え、「前田流」が残りました。
「前田流」の荻野検校が「前田流」の譜本から、「語り本」の決定稿を作り上げました。
(節回しを統一)
それが「平家正説(へいけまぶし)」です。
尾張藩主の庇護を受け、伝承が途絶えかけた平曲を救ったのでした。

<悲しい現状>
名古屋の重要な「平家琵琶」の価値を文化庁はわかっていません。
助成金が去年で打ち切られてしまいました。
現在、また、存亡の危機に陥っています。

<「奈須与一(なすのよいち)」>
去程(さるほど)に 阿波讃岐に 平家にそむいて 源氏を待ちける兵(つわ)ものども
あそこの嶺 爰(ここ)の洞より 十四五騎 二十騎 打連ゝ  駆来る程に
判官(ほうがん※義経のこと)程なく三百餘騎に成給ひぬ。
「今日は日暮ぬ。勝負を決すべからず」とて源平たがひに引退く所に
爰(ここ)に沖の方より 尋常に(※立派にの意味)飾つたる小舩を一艘
汀へむひてぞ漕せける。
渚七八反にも成しかば 舟を横様になす。
(※波が70~90mほどになったので、船が横向けになった)
あれはいかにとみる所に 舩の内より年の齢十八九ばかんなる女房の
柳(※表が青色)の五ツ衣(※模様)に 紅ゐの袴着たりけるが
皆紅ゐのあふぎ(※扇)の 日出たるを
舩のせがいに(※船の両舷) はさみ立 陸へむかひてぞ招きける。

(以下略)

今井検校による平曲「那須与一」

講義で読みと大意を教えて頂いたので、
朗々とした平曲の世界にすんなり入ることが出来ました。
独特の節回しが平家物語の世界に引きずり込んでくれました。
意外と琵琶は合いの手ぐらいの感じでした。

本物の検校は現在、今井検校ただ一人。
文化庁からの助成金がなくなってしまった、現在、
貴重な語りが聞けたのは本当にラッキーでした。




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